WATAHIROの映画論的Blog

このブログでは私が鑑賞した映画(時にはそれ以外も)の感想や考察などをなるべくゆる〜く記述していこうと思います。

『ミッドナイト・スカイ』(2021) ジョージ・クルーニー監督

1.地球滅亡映画として

 地球は何らかの環境危機により、人間の居住空間は地下へと移っていた。老博士のオーガスティンは重い癌を抱えながら、最後の時を過ごすかの如く、一人氷に閉ざされた北極圏の宇宙観測基地に残る決意をする。

 地球に変わる惑星として発見された木星の衛星であるKー23の調査のために送り込まれた宇宙調査船アイテル号は、K−23の調査を終え、地球への帰還の途についていた。しかし、アイテル号が調査を終える頃にはもう地球は手遅れで、とうに人間の住める星ではなくなっていた。気流の変化により、アイテル号の地球への帰還も不可能となっていた。まさに片道切符の宇宙調査になってしまったわけだ。オーガスティン博士はそれを伝えようと必死に宇宙船に呼びかけるが、通信が遮断され、なかなか繋がらない。そこで博士は危険を顧みず、山に守られたさらに通信環境の良い基地への移動を決意する。

 

 地球が滅亡の危機にあるか、もしくは既に滅亡の憂き目にあっている舞台を描いたSF映画は過去何本も制作されてきた。何故こんなにも同じ主題を扱った映画が作られるのだろう。それは単純に地球温暖化という問題が身近になり、私達の深く意識する主題となったからだろうか。サスティナビリティというワードや、SDGsなど環境問題を何とか解決しようという取り組みは事実私達も考えるほど一般的になりつつある。SF映画でも意識してみれば、こういった問題を学ぶ機会はある。というか、SF映画には、現代が抱える問題を未来に託して伝えるという力がある。まさに地球滅亡映画が伝えるのは、現代が抱える環境問題である。近未来的な都市で悠々自適に暮らす人々を描くSF映画がおそらく大方の人が思い描くイメージだろう。しかし、この作品のように暗い未来を描くSF映画もあるのだ。こちらの方がより現代と地続きにあり、身近に感じられるのではないか。だからこそ広く受け入れられてきたのではあるまいか。

 そして、この対極の未来のどちらに進むかは、今を生きる私達次第なのだ。

 

2.家族愛映画として

 この作品は、実際には家族ではないのだが、家族愛的な側面を描くのがまさにアメリカ映画らしいなと感じてしまう。クリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』においても地球の滅亡危機という設定の上に、父と娘の家族愛を描いていた。父子間の絆というのか、それがアメリカ的な家族のあり方の特徴の一つなのかもしれない。例えば『シン・ゴジラ』には、主人公の官僚の男の家族は一切描かれていない。それがこの作品がいまいちアメリカで受け入れられなかった理由だったりするらしい。日本のSF映画はほとんどこういう家族愛的な面は描かれてこなかったように思う。『エヴァンゲリオン』の碇シンジ碇ゲンドウの少し歪んだ関係性などはあるが。

 

 オーガスティンは一人北極圏に残ったものと思っていたが、そこに一人の少女が取り残されていた。名前はアイリスという。オーガスティンはアイリスと共により通信設備の良い基地へと移動する。その道中様々な危険に出会すことになる。一方、アイテル号で地球に帰還途中であった宇宙飛行士のサリーは、自分たちがもう地球に帰れないことを博士に告げられると、再びKー23へ旅立つ決意をする。

 最後にサリーはオーガスティンに自分が博士を知っていて、名前がアイリスであったことを告げている。

 

 これはどういうことなのか最後に大きな謎を残してくれた。博士の回想シーンでも別れた元奥さんの車に乗っている少女が、博士と行動を共にする少女と同一人物であることがわかる。一度作品を見ただけでは何だが判然としないが、本当はサリーが自分の娘だったのか。では博士と行動を共にする少女の存在は何なのか。滅びゆく地球で生きる希望を失った中で見た幻影なのか。いずれにせよ、地球と宇宙という距離にあり、もう会うことの叶わない二人の家族愛的な側面が窺える。それがこの作品を先述した『インターステラー』同様、味わい深い作品に仕立てている要因だろう。

 これはただの地球滅亡映画ではない。壮大な家族の愛を描いた映画でもあるのだ。