WATAHIROの映画論的Blog

このブログでは私が鑑賞した映画(時にはそれ以外も)の感想や考察などをなるべくゆる〜く記述していこうと思います。

AKIRA (1988) 監督 大友克洋

 

1988年東京で「新型爆弾」が炸裂し、第三次世界大戦が勃発。しかし、それは超能力者アキラが覚醒した事による実験の失敗とされる。

それから31年後、2019年の新たな首都「ネオ東京」では、反政府ゲリラと軍との衝突が続いていた。

不良少年の金田は、甲斐・鉄雄らと共に、オートバイでの暴走に明け暮れる日々を繰り返していた。ある日、暴走中に鉄雄がナンバーズと呼ばれる超能力者の1人タカシと衝突したことで警察に拉致されてしまう。

 

そして、事故をきっかけとして能力に目覚めた鉄雄は、同時に自我を肥大化させ、病院から脱走。見知らぬ少年の幻覚や幻聴に苛まれるようになり、怒りに任せて力を振るうようになっていく。そんな鉄雄を軍はアキラと並ぶ能力を秘めた実験体として管理下に置こうとするが、幼児期から金田に庇護されてきた鉄雄のコンプレックスを刺激するだけだった。鉄雄を止めるべくタカシらナンバーズも直接、あるいは反政府ゲリラのケイを介して鉄雄との接触を試みるが拒絶される。(Wikipediaによる)

 

 

この作品の魅力と言えば、超能力者となった鉄雄の暴走、それを食い止めようとする軍や金田、ナンバーズ達とのアクションシーンがまず挙げられるが、私が最も惹きつけられたのは、その退廃的な近未来のイメージである。同時代の作品で言えば、『トータルリコール』や『ブレードランナー』などが同じ様なイメージだが、『AKIRA』では、後に監督が述べている様に、何処か昭和的な印象を抱くのが特徴だろう。作品中金田が乗り回すオートバイやネオ東京の街並みを見回して見ても、確かに近未来的なガジェットが登場している。しかし、金田達やその他の不良グループが学校を拒否して、抗争を繰り広げたり、権力の枠外に有ろうとする様はまさしくこの作品が公開された当時、1980年代の時代性に合致する気がする。上述した『トータルリコール』や『ブレードランナー』は海外作品の為、勿論『AKIRA』の日本的な昭和性とは比べる事は出来ないが、この昭和性こそが、未来とは暗くて寂しいだけでなく、若者が何かを探そうとする、言わば希望の様な感情も抱かせるのではないだろうか。

 

 

物語の舞台が東京オリンピックを翌年に控えた2019年、しかも物語中、そのオリンピックを中止させようとする動きが見て取れるところから、この作品が一時期話題になった。まさに予想的中と言ったところだが、それだけに注視してしまうのはあまりに勿体ない。世界中が未曾有の事態であるこのコロナ禍において、改めてこの作品を見つめる意味とは何なのか。

 

 

自分の意思とは関係なく、突然超能力者となった鉄雄はその力を最初コントロール出来ず、次々と破壊の限りを尽くす暴力装置と化してしまう。しかし、段々その力を自分のものとしていった鉄雄は、今まで自分を守っていた金田に対して敵意を剥き出しにしていく。言わば、金田に守られていた自分を否定するように。

だが、金田はそんな鉄雄を見捨てようとはしない。とうとう力の制御を失い、肉や機械の塊となって膨張していく鉄雄。金田は鉄雄の助けを求める声に呼応するかの様に、鉄雄の中へと飛び込んでいく。

 

 

私達はこのコロナ禍において、人と人との間に見えない壁を作るようになった。インターネットやSNSはコロナ禍以前から発達し、便利なコミュニケーションツールであった。一方で相手が見えないからこそ、SNSでの誹謗中傷はそんな利便性の負の側面である。以前からこの問題は様々な所で取り上げられていたが、人との接触機会が激減した現在、益々その負の側面は膨張しているように思う。

 

だが、作品中の金田達はどうだろうか。小さい頃からの友人である鉄雄を金田はどんな事かあっても見捨てる事はない。自分の命すらも顧みない覚悟だ。

 

勿論、コロナの状況において、感染症予防の観点から人との接触機会が減ったのは仕方のないことだ。しかし、私達は顔の見えない相手とスマホ画面をなぞるだけで人と争っている場合なのだろうか。金田のように怪物となった鉄雄=スマホ画面の向こうの顔の見えない相手にもっと想いはせる必要があるのではないか。

 

 顔の見えない相手だろうが、知り合いだろうが、人間は関わり合って社会を動かしている。

というよりも人間同士が密接に関わることそれ自体が社会である。私達は誹謗中傷し合い、心理的な距離までも広げてしまい、自らの手によって自らの社会を破壊しようとしているのではないだろうか。

 どうしようもない不良少年だった金田が、最後はアキラとともに別次元へと消えてしまった鉄雄に想いを馳せる。そしてそこに光が差し込み、ナンバーズの声、「でも、いつかは私達にも」「もう始まっているからね」。

 

 明けない夜はないとは臭い言い回しだが、本当にその通りで、絶望に目を伏せてばかりではいられない。人間は常に思考し、誰かを想い、行動する。それが人間に与えられているいわば特権である。それを行使しないでただ画面の向こう側の相手と喧嘩を繰り返すようでは一向に社会はより良く発展しない。

 

今は暗い時代かもしれないが、いつかそこに光が差し込むことを願って、自分にも何かが出来るかもしれないと胸に秘め、今を生きていこう。

 

ラストの生き残った金田たちがまた街へと戻っていく様は、この退廃した時代に希望を見出し走り出していこうとする想いが見て取れる。

 

私たちの希望の旅路もまさにもう始まっているのだ。