ゲット・アウト(2017) ジョーダン・ピール監督
見る前はこんな映画だとは思ってもみなかった。
白人のガールフレンドの実家を訪れた黒人青年の身に起こる恐ろしい出来事を描いた今作。
鑑賞前はホラーという触れ込みだったので、黒人の差別主義にホラー的な要素を混ぜ込んだ少し異色の作品かと思っていたが、さすがは数年前の米アカデミー賞を賑わしただけはあるなぁ。蓋を開けてみれば私の考えの遥か先をいく展開だった。
黒人差別の問題を描いているのは間違いない。ただ今作はそれだけに収まらないというか、ネタバレになるので詳細は語らないが、こういった展開にすることで差別問題を主題に置いていないというか、別の角度をついた映画に思えてくる。
支配層(白人)と被支配層(黒人)という対比。今作では主人公の黒人クリスの恋人である白人のローズの実家に雇われる黒人の使用人という描かれ方から非常に鮮明に浮かび上がってくる。現代のアメリカの白人家庭の実情を詳細に把握しているわけではないが、現代を舞台にした映画でこういうはっきりとした黒人蔑視的な描かれ方は時代錯誤的で違和感のある描かれ方だと最初は思った。だが、ローズの家庭で黒人がどう扱われれて、どういう処理をされているかを知り、最後にこの使用人の黒人の正体を知った時、衝撃に襲われた。
催眠術や常軌を逸した脳神経手術など、何だか現実味のない道具立てではあるが、ある意味それが今作を黒人差別問題を超越した異色すぎるエンターテイメント作品に仕立てている。
公開から数年経っているので、遅きに逸した感はあったのだが、そんなことは些末なこと。
アメリカの黒人差別を扱っていると難しく感じるかもしれないが、今作は純粋にエンタメ作品として楽しめる作りになっている。見方によってはコメディチックな感もあるかもしれない。
しかし、十分アメリカが現代抱える社会的な問題に目を向けることもできる。
映画がだだ撮っているだけじゃないっていうことがわかる。だから深読みするのが面白いのだ。
『ミッドナイト・スカイ』(2021) ジョージ・クルーニー監督
1.地球滅亡映画として
地球は何らかの環境危機により、人間の居住空間は地下へと移っていた。老博士のオーガスティンは重い癌を抱えながら、最後の時を過ごすかの如く、一人氷に閉ざされた北極圏の宇宙観測基地に残る決意をする。
地球に変わる惑星として発見された木星の衛星であるKー23の調査のために送り込まれた宇宙調査船アイテル号は、K−23の調査を終え、地球への帰還の途についていた。しかし、アイテル号が調査を終える頃にはもう地球は手遅れで、とうに人間の住める星ではなくなっていた。気流の変化により、アイテル号の地球への帰還も不可能となっていた。まさに片道切符の宇宙調査になってしまったわけだ。オーガスティン博士はそれを伝えようと必死に宇宙船に呼びかけるが、通信が遮断され、なかなか繋がらない。そこで博士は危険を顧みず、山に守られたさらに通信環境の良い基地への移動を決意する。
地球が滅亡の危機にあるか、もしくは既に滅亡の憂き目にあっている舞台を描いたSF映画は過去何本も制作されてきた。何故こんなにも同じ主題を扱った映画が作られるのだろう。それは単純に地球温暖化という問題が身近になり、私達の深く意識する主題となったからだろうか。サスティナビリティというワードや、SDGsなど環境問題を何とか解決しようという取り組みは事実私達も考えるほど一般的になりつつある。SF映画でも意識してみれば、こういった問題を学ぶ機会はある。というか、SF映画には、現代が抱える問題を未来に託して伝えるという力がある。まさに地球滅亡映画が伝えるのは、現代が抱える環境問題である。近未来的な都市で悠々自適に暮らす人々を描くSF映画がおそらく大方の人が思い描くイメージだろう。しかし、この作品のように暗い未来を描くSF映画もあるのだ。こちらの方がより現代と地続きにあり、身近に感じられるのではないか。だからこそ広く受け入れられてきたのではあるまいか。
そして、この対極の未来のどちらに進むかは、今を生きる私達次第なのだ。
2.家族愛映画として
この作品は、実際には家族ではないのだが、家族愛的な側面を描くのがまさにアメリカ映画らしいなと感じてしまう。クリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』においても地球の滅亡危機という設定の上に、父と娘の家族愛を描いていた。父子間の絆というのか、それがアメリカ的な家族のあり方の特徴の一つなのかもしれない。例えば『シン・ゴジラ』には、主人公の官僚の男の家族は一切描かれていない。それがこの作品がいまいちアメリカで受け入れられなかった理由だったりするらしい。日本のSF映画はほとんどこういう家族愛的な面は描かれてこなかったように思う。『エヴァンゲリオン』の碇シンジと碇ゲンドウの少し歪んだ関係性などはあるが。
オーガスティンは一人北極圏に残ったものと思っていたが、そこに一人の少女が取り残されていた。名前はアイリスという。オーガスティンはアイリスと共により通信設備の良い基地へと移動する。その道中様々な危険に出会すことになる。一方、アイテル号で地球に帰還途中であった宇宙飛行士のサリーは、自分たちがもう地球に帰れないことを博士に告げられると、再びKー23へ旅立つ決意をする。
最後にサリーはオーガスティンに自分が博士を知っていて、名前がアイリスであったことを告げている。
これはどういうことなのか最後に大きな謎を残してくれた。博士の回想シーンでも別れた元奥さんの車に乗っている少女が、博士と行動を共にする少女と同一人物であることがわかる。一度作品を見ただけでは何だが判然としないが、本当はサリーが自分の娘だったのか。では博士と行動を共にする少女の存在は何なのか。滅びゆく地球で生きる希望を失った中で見た幻影なのか。いずれにせよ、地球と宇宙という距離にあり、もう会うことの叶わない二人の家族愛的な側面が窺える。それがこの作品を先述した『インターステラー』同様、味わい深い作品に仕立てている要因だろう。
これはただの地球滅亡映画ではない。壮大な家族の愛を描いた映画でもあるのだ。
『すばらしき世界』(2021)西川美和監督
1.元受刑者で元ヤクザ
殺人事件を起こし刑務所での刑期を終えた元ヤクザの三上を待っていたのは、目まぐるしく変化する、想像を絶する世界であった。そんな三上に母親探しを口実に近づき、テレビのネタにしようとする二人の若手テレビディレクター。真っ直ぐ過ぎるが故に、周囲とトラブルばかりの元殺人犯の男が、いつしか彼と関わる人物たちの人生を変えてしまう。
殺人を犯して服役し、13年の刑期を終えて出所した元ヤクザ。こんなにも世間から爪弾きにされるだろうと想像に難くない人物は他にいないだろう。例えば、自分の家の近くにこんな人物が住んでいれば怖いと思うのが普通である。しかしそれは、「殺人を犯して服役し、13年の刑期を終えて出所した元ヤクザ」という肩書だけを考慮した場合だろう。
日本人は兎角人を見た目や肩書だけで判断しがちである。だがそれは元を正せば日本人が悪いわけではない。これが正しい、こうすれば上手くいく、この道を行けば幸せになれるという正解主義を植え付ける日本の戦後教育が深く影響している。「殺人を犯して服役し、13年の刑期を終えて出所した元ヤクザ」が世間から白い目で見られるべき存在だと頭ごなしに決め付けるのは、それが最も簡単だからである。
役所広司演じるこの三上という男は、すぐカッとなってしまうが真っ直ぐでとても心優しい人物である。しかし、世間はそう優しくはないのだ。端から警戒すべき人物としてまともに扱おうとしない。元殺人犯にとって13年ぶりに出てきた世界は想像を絶する程生きづらい。
2.彼を手助けする存在
だが、本当の彼を認めてくれようとする人物たちも存在する。
出所した際に身元引き受け人になってくれた弁護士の先生とその奥さん。最初は反社に対し、生活保護の受給を渋っていたが、真面目に頑張ろうとする彼を見て心を入れ替える役場の職員。尋常ではない男に対して、万引きを疑うが、彼の性格に打たれてしまうスーパーの店長。初めはただの取材対象であり、飯の種でしかなかったが、取材していくうちに本当の彼の姿に自分の価値観を変えられてしまう若手テレビディレクターの男。
真っ直ぐ真面目に生きてさえいれば、社会のどこかに必ず自分を認めてくれる人や助けてくれる人がいるんだと信じさせてくれる作品である。
三上の就職がようやく決まった時も彼らは自分のことのように喜んでくれる。一旦は社会に見捨てられても、諦めず、一生懸命にもがき、何とか自分の居場所を見つけられた時に、たった数人でも自分を祝ってくれる人たちがいればこんなにも幸せなんだと実感できる。
見ていて涙が溢れてくるシーンだろう。
3.三上が見る世界
そうは言っても、やはり三上の目に写る世界は醜く、生きづらい。普通の人と何か違う人間は中傷や嘲りの対象にされやすい。彼の就職先である介護施設でも、障害を持った同僚がいじめに遭っていた。以前までの三上なら頭に血が上り、暴力によってそれを解決していた。しかし、胸の苦しさを覚えながらも何とか理性を保とうとする。自分を社会に合わせようと見て見ぬふりをする。しかし、三上の性格からしてそれが許せないのは明らかだ。暴力が受け入れられないのは今の社会であれば当然のことだ。でも三上は、自分を曲げてまで社会と折り合いをつけられるほど器用な人間ではない。三上にとって本当の意味での居場所はこの現代社会にはなかったのかもしれない。ネタバレは避けたいのであえて深くは言及しないが、この絶望とも言える状況がラストシーンへと繋がるのではないだろうか。
本作は人と人同士の関係が希薄になってしまったこのコロナ禍にこそ見てもらいたい。社会から孤立しては生きていけない。人と人の繋がりがあるからこそ私達は生かされているのだと改めて実感できるのではないか。また、本当の悪人なんてこの世にはいないんじゃないか、私達は無思考で肩書だけで人をそう決め付けているだけなんだと、自らの価値観を覆される物語になっているのではないかと思う。
『シャイニング』(1980) スタンリー・キューブリック監督
まさに映画史に燦然と輝く名作といって良いだろう。公開から40年以上経った現在でもこの作品の持つ影響力は決して衰えてはいないと個人的には思う。というかキューブリック作品は『2001年宇宙の旅』にしろ、『時計仕掛けのオレンジ』にしろ、後に多大な影響を与え、名作と数えられる作品が多い。
たまにあまり頻繁に映画に触れてない人に「おすすめの映画は何?」と聞かれることがあるが、そういう時、本当はキューブリックの作品を挙げたくなるのだが、返ってくる反応が芳しくない事が想像できてしまうので、返答に窮してしまう事がある。
そこでキューブリックの名前を出すと、そもそも名前すら知らないという人が大半である。
自分としても確かにキューブリック作品は「玄人向けだよなぁ」と感じてしまう。それぐらいキューブリック作品は一般には伝わりづらい。
しかし、この『シャイニング』はそんなキューブリック作品のなかでもどちらかと言うとエンターテイメントに振っている作品なのではないだろうか。そのせいで原作者のスティーブン・キングには原作の骨子を歪められたと批判されたらしいが。
何にせよ、この作品は間違いなく万人におすすめできる映画だろう。と言ってもやはりキューブリック作品だ。誰もが知っている監督ではない。
知り合いや彼女におすすめの映画何?と聞かれたら、是非この映画を挙げて頂き、映画通を気取ってみよう!
小説家志望のジャックは、雪深く冬季には閉鎖されてしまう山上のホテルに管理人として、妻と一人息子を連れ訪れる。
この映画の始まりを告げるオープニングから惹きつけられるものがある。
ジャック達が雪山のホテルに向かっているであろう車を空撮で捉えた映像であるが、暗く重低音な音楽と相まって底知れぬ不安感をオープニングから煽ってくる。
空から何か事物を捉える映像とは、ヘリや飛行機に乗っているのなら別だが、普通人間が見ている視点とは考えにくい。では一体この空撮映像は何の視点なのだろう。鳥?いや、少なくとも鳥がこの作品に関わる事はない。では神?個人的にはこっちの解釈の方が好きなのだか、判然としない。
何にせよ、何かがこの一家に降り注ぐことが示唆されているような気がしてくる。
ホテルの支配人から、以前の管理人が孤独に苛まれ、斧で家族を惨殺し、自殺したというこのホテルの恐ろしい逸話を聞かされるジャックだったが、気にかけることもなく、住み込みで管理人としての職を引き受ける。しかし、シャイニングという特別な能力を持つ一人息子のダニーは次々と不可思議な現象に遭遇する。
この作品の印象的なシーンの一つが、ダニーが三輪車に乗りホテルを縦横無尽に走り回り、それをステディカムを使って背後から追いかけて撮影されるシーンだろう。やはりここでも視点の話になるのだが、ダニーを背後から追いかける視点とは一体誰の視点なのだろう。
三輪車に乗るダニーと同じくらいの高さの視点であることから、大人でもないし、子供でもないようだ。赤ちゃんなら高さ的には合うだろうが、赤ちゃんが三輪車を追いかけられるはずもない。
先述した空撮シーンにもいえることだが、こういった普通ではない視点からは、人間ではない何か別の者の影を感じずにはいられなくなる。ダニーにつきまとう何か、ダニーの身にこれから起こるであろう恐怖を想像してしまう。
ダニーが遭遇する恐怖には237号室の女や廊下に佇む双子の少女達などがあるが、実際これらはホラー作品の道具立てとして効果が発揮されているが、今となっては特に双子の少女はこの作品のシンボル・アイコンとなっている。
これらの存在の正体は作中明らかにはされないが、ダニーが三輪車でホテル内を疾走するシーンと合わせて印象的なシーンとなっている。
だからこそアイコンとして皆に認知されるわけだろうが。
その後ジャックはホテルに存在する見えざる恐怖によって精神を苛まれ、狂気へと飲み込まれていく。
狂気に堕ちたジャックが妻と息子を部屋に追い込んだときに、斧で壊した壁の間から見せる狂乱の表情は先程から述べているように、これまたこの作品のアイコンとなっている。
まさにジャック・ニコルソンといえばこのシーンを挙げる人も多いのではないだろうか。
一度見れば脳内にこびり付くシーンだろう。
『シャイニング』は、映像と音楽が相乗効果によって上手くその恐怖を鑑賞者に伝えている。
もしかしたら最近この作品を見た人はだいぶ古臭く感じることだろう。しかし、冒頭で述べたように、この作品は映画史に残る名作である。それはホラー映画のいわば教科書的な面もありつつ、キューブリックの個性が発揮されたまさにハイブリットな作品だからではないだろうか。
2019年には『ドクタースリープ』という続編も公開されている。『シャイニング』の主人公ジャックの一人息子ダニーが大人になった時代の物語である。こちらはホラーの要素もありつつ、アクションシーンなども加え、ヒーロー映画の様相も呈している作品だ。
『シャイニング』を見ていないと十分には楽しめないだろうが、どちらと言えばこちらの作品の方がエンターテインメント作品として楽しむことができるだろう。是非!
AKIRA (1988) 監督 大友克洋
1988年東京で「新型爆弾」が炸裂し、第三次世界大戦が勃発。しかし、それは超能力者アキラが覚醒した事による実験の失敗とされる。
それから31年後、2019年の新たな首都「ネオ東京」では、反政府ゲリラと軍との衝突が続いていた。
不良少年の金田は、甲斐・鉄雄らと共に、オートバイでの暴走に明け暮れる日々を繰り返していた。ある日、暴走中に鉄雄がナンバーズと呼ばれる超能力者の1人タカシと衝突したことで警察に拉致されてしまう。
そして、事故をきっかけとして能力に目覚めた鉄雄は、同時に自我を肥大化させ、病院から脱走。見知らぬ少年の幻覚や幻聴に苛まれるようになり、怒りに任せて力を振るうようになっていく。そんな鉄雄を軍はアキラと並ぶ能力を秘めた実験体として管理下に置こうとするが、幼児期から金田に庇護されてきた鉄雄のコンプレックスを刺激するだけだった。鉄雄を止めるべくタカシらナンバーズも直接、あるいは反政府ゲリラのケイを介して鉄雄との接触を試みるが拒絶される。(Wikipediaによる)
この作品の魅力と言えば、超能力者となった鉄雄の暴走、それを食い止めようとする軍や金田、ナンバーズ達とのアクションシーンがまず挙げられるが、私が最も惹きつけられたのは、その退廃的な近未来のイメージである。同時代の作品で言えば、『トータルリコール』や『ブレードランナー』などが同じ様なイメージだが、『AKIRA』では、後に監督が述べている様に、何処か昭和的な印象を抱くのが特徴だろう。作品中金田が乗り回すオートバイやネオ東京の街並みを見回して見ても、確かに近未来的なガジェットが登場している。しかし、金田達やその他の不良グループが学校を拒否して、抗争を繰り広げたり、権力の枠外に有ろうとする様はまさしくこの作品が公開された当時、1980年代の時代性に合致する気がする。上述した『トータルリコール』や『ブレードランナー』は海外作品の為、勿論『AKIRA』の日本的な昭和性とは比べる事は出来ないが、この昭和性こそが、未来とは暗くて寂しいだけでなく、若者が何かを探そうとする、言わば希望の様な感情も抱かせるのではないだろうか。
物語の舞台が東京オリンピックを翌年に控えた2019年、しかも物語中、そのオリンピックを中止させようとする動きが見て取れるところから、この作品が一時期話題になった。まさに予想的中と言ったところだが、それだけに注視してしまうのはあまりに勿体ない。世界中が未曾有の事態であるこのコロナ禍において、改めてこの作品を見つめる意味とは何なのか。
自分の意思とは関係なく、突然超能力者となった鉄雄はその力を最初コントロール出来ず、次々と破壊の限りを尽くす暴力装置と化してしまう。しかし、段々その力を自分のものとしていった鉄雄は、今まで自分を守っていた金田に対して敵意を剥き出しにしていく。言わば、金田に守られていた自分を否定するように。
だが、金田はそんな鉄雄を見捨てようとはしない。とうとう力の制御を失い、肉や機械の塊となって膨張していく鉄雄。金田は鉄雄の助けを求める声に呼応するかの様に、鉄雄の中へと飛び込んでいく。
私達はこのコロナ禍において、人と人との間に見えない壁を作るようになった。インターネットやSNSはコロナ禍以前から発達し、便利なコミュニケーションツールであった。一方で相手が見えないからこそ、SNSでの誹謗中傷はそんな利便性の負の側面である。以前からこの問題は様々な所で取り上げられていたが、人との接触機会が激減した現在、益々その負の側面は膨張しているように思う。
だが、作品中の金田達はどうだろうか。小さい頃からの友人である鉄雄を金田はどんな事かあっても見捨てる事はない。自分の命すらも顧みない覚悟だ。
勿論、コロナの状況において、感染症予防の観点から人との接触機会が減ったのは仕方のないことだ。しかし、私達は顔の見えない相手とスマホ画面をなぞるだけで人と争っている場合なのだろうか。金田のように怪物となった鉄雄=スマホ画面の向こうの顔の見えない相手にもっと想いはせる必要があるのではないか。
顔の見えない相手だろうが、知り合いだろうが、人間は関わり合って社会を動かしている。
というよりも人間同士が密接に関わることそれ自体が社会である。私達は誹謗中傷し合い、心理的な距離までも広げてしまい、自らの手によって自らの社会を破壊しようとしているのではないだろうか。
どうしようもない不良少年だった金田が、最後はアキラとともに別次元へと消えてしまった鉄雄に想いを馳せる。そしてそこに光が差し込み、ナンバーズの声、「でも、いつかは私達にも」「もう始まっているからね」。
明けない夜はないとは臭い言い回しだが、本当にその通りで、絶望に目を伏せてばかりではいられない。人間は常に思考し、誰かを想い、行動する。それが人間に与えられているいわば特権である。それを行使しないでただ画面の向こう側の相手と喧嘩を繰り返すようでは一向に社会はより良く発展しない。
今は暗い時代かもしれないが、いつかそこに光が差し込むことを願って、自分にも何かが出来るかもしれないと胸に秘め、今を生きていこう。
ラストの生き残った金田たちがまた街へと戻っていく様は、この退廃した時代に希望を見出し走り出していこうとする想いが見て取れる。
私たちの希望の旅路もまさにもう始まっているのだ。
パラサイト〜半地下の家族〜 (2020年) ポン・ジュノ監督
『パラサイト 半地下の家族』といえば、昨年米アカデミー賞において、英語圏以外の作品で初めて作品賞と監督賞を受賞したことで有名である。
話の土台としては簡単にいうと、韓国の格差社会が物語の下地になっている。
半地下の家に住む家族と、高級住宅街に豪奢な邸宅を構える家族という非常に分かり易い対比である。一方でその間の中間層の描写が一切描かれていない。至極簡潔な対比構造で作品は成り立っている。しかし、この分かり易い対比が多くの人々に受け入れられた所以であろうと思う。
半地下に住むキム家は、他所のWIFIを盗んでネットを使い、ピザのパッケージ作りの内職をして、まさにその日暮らしな様相。一方のお金持ちのパク家は家政婦や家庭教師を雇い、とんでも無く大きな家に暮らしている会社社長一家である。この明らかな格差、最上位層と最底辺の暮らし風を見るのもこの映画の面白さである。世間の人々に受けるのはいつでも分かり易い設定である。
また、キム家が言葉巧みにパク家にまさにパラサイトのように寄生していく様は、見ていて爽快と言っても過言ではない。ただ、パク家の奥さんが言われたこと何でも受け入れてしまうぐらいピュアすぎるというキャラ設定もあるが。
舞台設定的にも格差という面をはっきりさせる工夫がある。まず、地下と地上という居住空間も分かり易い。半地下に暮らすキム家もそうだが、パク家の家政婦が実は家の地下に借金取りから逃れるために夫を隠れて住まわせている描写も空間を巧みに利用して格差という面をはっきりさせる要因になっている。
格差社会を描いた映画は世の中にたくさんあるだろうが、ここまでエンターテイメント性を高めた作品も珍しいのではないかと思う。重苦しい雰囲気になるのが普通だと思うが、この作品は単純に面白さも追求している。
大半の格差社会映画は底辺の方に寄った描き方をしがちだ。この作品もそんな雰囲気が確かにある。しかし、巨大化した資本主義社会ではこういった格差が生まれてくるのは当然と言えば当然であろう。それを底辺の側に立って批判するのはあまりに安易な描かれ方のような気がする。キム家のように、身分を偽って他人の家族に寄生するのは当たり前だが悪行であろう。
しかし、成熟した資本主義社会では財を成す資本家もいれば、地下で暮らす貧乏な生活から抜け出そうもがく人間も存在する。何とか這い上がろうとする、そんなチャンスを与えられるのも、現代の資本主義ではないだろうか。この作品のラストシーンにもそれを表す描写がある。
お金持ち、成金は批判の的になりがちだが、お金を稼ぐことはもちろん悪いことでも何でもない。ではなぜこうも批判が絶えないのか。それはパク家のように自己中心的な、社会を自分の尺度でしか見れない資本家が存在するからであろう。大雨の洪水で半地下の住民たちが家を失い避難生活を余儀なくされる中、お金持ちは雨が降ってPM2.5が減っただの、匂いが消えてくれただの、自分たちの身の回りにしか想い及ばないのだ。以前であれば、社会の上位と下位には厳然たる壁が存在した。しかし、インターネットやSNSが普及した現在はお金を稼ぐハードルはだいぶ下がっていると言われる。下位が上位と肩を並べる、または追い越すことが現実的に可能な社会となっているのもまた事実であると思う。キム家の父親がパク家の父親を刺殺すシーンは、描写的にはあまりにも明確すぎてしまうが、ここからラストシーンへの繋がりは、まさに上位と下位の逆転構造と言えるかもしれない。
そういうことで、現代の格差社会を深く考えさせられる作品であると思う。
Opening
映画は19世紀に誕生した比較的新しい芸術である。
かのトーマス・エジソンが開発したキネトスコープは、箱の中を覗き込む形で映画を鑑賞する形であった。その後、フランスのリミュエール兄弟によってシネマトグラフが開発され、映画は初めてスクリーンに投影されて鑑賞するという現代に繋がるスタイルを獲得した。
1895年、リミュエール兄弟はパリのグラン・カフェにて世界で初めてとされる映画の有料公開を開催する。そこで人々に写し出されたのは、工場の出口から人々が出てくるだけの映像、そして駅に入ってくる汽車の映像であった。特に後者の方に関しては、カメラの方、つまり観客の方に向かって迫ってくる汽車を見て、観客はこちらに汽車が突っ込んできていると思い、大騒ぎしたという逸話が残っている。
映画の始まりはそのような驚きをもってスタートしたと言っても過言ではない。エジソンやリミュエール兄弟、ジョルジュ・メリエスなどの映画黎明期の意志は今日まで受け継がれてきていると思う。
このブログでは新作はもちろん、いわゆる名作と言われるような作品まで幅広く紹介していければいいなと思っている。
映画好きな人って世の中にたくさんいて、それはすごく嬉しいことである。
数多ある芸術の中でも総合芸術と呼ばれる映画は、ある種崇高な扱いをされているように思う。
しかし、それはあくまでも欧米などの海外での話。国立大学に映画学科があったり、国立の映画学校があったりするのはやはり映画がそれだけ文化として浸透している証拠ではないか。
しかし、日本の現状を見るとどうもそうはなっていない。それがすごく残念でならない。
もちろん日本映画にも素晴らしい作品は数多くあるが、海外の映画祭などで受賞するのは何年かに一度というペース。国内にはそれがきっかけで知られるというのがここ最近の流れ。
今年度の米アカデミー賞で韓国映画『パラサイト』が監督賞、作品賞を受賞したのは記憶に新しい。90年の歴史上、アメリカ映画、英語圏の映画以外の作品が作品賞を受賞したのはこれが初めてのことであった。これは政府の後押しを受け、ハリウッドの制作環境をそのまま導入したことによって実現した快挙なのである。
日本も確かに文化庁が中心になって映画制作に協力していこうという動きがあるにはある。
しかし、まだまだ足りない。国家的な後押しが全てではないが、まずはどれだけお金をかけらる環境があるかどうかだろう。もっともっと日本でも映画が崇高な扱いをされ、漫画原作だけに頼るような興行の状態を抜け出せるくらいリテラシーというか、映画の本当の素晴らしさを知ってほしい。
それがこのブログ発起の理由でもある。
でもまあ、大学の論文のようなお堅いことを書き連ねてもそんなに需要はないと思うし、ブログという媒体ともマッチしないように思うので、なるべくゆる〜い感じで思ったことを書いていこうと思う。