WATAHIROの映画論的Blog

このブログでは私が鑑賞した映画(時にはそれ以外も)の感想や考察などをなるべくゆる〜く記述していこうと思います。

パラサイト〜半地下の家族〜 (2020年) ポン・ジュノ監督

 

 『パラサイト 半地下の家族』といえば、昨年米アカデミー賞において、英語圏以外の作品で初めて作品賞と監督賞を受賞したことで有名である。

 話の土台としては簡単にいうと、韓国の格差社会が物語の下地になっている。

半地下の家に住む家族と、高級住宅街に豪奢な邸宅を構える家族という非常に分かり易い対比である。一方でその間の中間層の描写が一切描かれていない。至極簡潔な対比構造で作品は成り立っている。しかし、この分かり易い対比が多くの人々に受け入れられた所以であろうと思う。

 半地下に住むキム家は、他所のWIFIを盗んでネットを使い、ピザのパッケージ作りの内職をして、まさにその日暮らしな様相。一方のお金持ちのパク家は家政婦や家庭教師を雇い、とんでも無く大きな家に暮らしている会社社長一家である。この明らかな格差、最上位層と最底辺の暮らし風を見るのもこの映画の面白さである。世間の人々に受けるのはいつでも分かり易い設定である。

 また、キム家が言葉巧みにパク家にまさにパラサイトのように寄生していく様は、見ていて爽快と言っても過言ではない。ただ、パク家の奥さんが言われたこと何でも受け入れてしまうぐらいピュアすぎるというキャラ設定もあるが。

 舞台設定的にも格差という面をはっきりさせる工夫がある。まず、地下と地上という居住空間も分かり易い。半地下に暮らすキム家もそうだが、パク家の家政婦が実は家の地下に借金取りから逃れるために夫を隠れて住まわせている描写も空間を巧みに利用して格差という面をはっきりさせる要因になっている。

 格差社会を描いた映画は世の中にたくさんあるだろうが、ここまでエンターテイメント性を高めた作品も珍しいのではないかと思う。重苦しい雰囲気になるのが普通だと思うが、この作品は単純に面白さも追求している。

 大半の格差社会映画は底辺の方に寄った描き方をしがちだ。この作品もそんな雰囲気が確かにある。しかし、巨大化した資本主義社会ではこういった格差が生まれてくるのは当然と言えば当然であろう。それを底辺の側に立って批判するのはあまりに安易な描かれ方のような気がする。キム家のように、身分を偽って他人の家族に寄生するのは当たり前だが悪行であろう。

しかし、成熟した資本主義社会では財を成す資本家もいれば、地下で暮らす貧乏な生活から抜け出そうもがく人間も存在する。何とか這い上がろうとする、そんなチャンスを与えられるのも、現代の資本主義ではないだろうか。この作品のラストシーンにもそれを表す描写がある。

 お金持ち、成金は批判の的になりがちだが、お金を稼ぐことはもちろん悪いことでも何でもない。ではなぜこうも批判が絶えないのか。それはパク家のように自己中心的な、社会を自分の尺度でしか見れない資本家が存在するからであろう。大雨の洪水で半地下の住民たちが家を失い避難生活を余儀なくされる中、お金持ちは雨が降ってPM2.5が減っただの、匂いが消えてくれただの、自分たちの身の回りにしか想い及ばないのだ。以前であれば、社会の上位と下位には厳然たる壁が存在した。しかし、インターネットやSNSが普及した現在はお金を稼ぐハードルはだいぶ下がっていると言われる。下位が上位と肩を並べる、または追い越すことが現実的に可能な社会となっているのもまた事実であると思う。キム家の父親がパク家の父親を刺殺すシーンは、描写的にはあまりにも明確すぎてしまうが、ここからラストシーンへの繋がりは、まさに上位と下位の逆転構造と言えるかもしれない。

 そういうことで、現代の格差社会を深く考えさせられる作品であると思う。